古屋圭司通信

  月刊誌「正論」2005年1月号(産経新聞社)に、「サッチャー改革に学べ!教育再興の任は国家にあり」と題し、私の英国教育改革視察の報告・座談会が掲載されました。今後の日本の教育改革の指針となるべき内容です。ぜひご一読ください。
   <出席者>
    安倍 晋三  自民党幹事長代理・衆議院議員
    古屋 圭司  教科書議連会長・衆議院議員
    下村 博文  文科大臣政務官・衆議院議員
    山谷 えり子 参議院議員
   <司会>
    椛島 有三 日本会議事務総長
 --いま、教育基本法改正が大きな政治課題となっていますが、一部では、教育基本法を改正しても学校現場が変わるわけではないという声もあるわけです。しかし、イギリスでは、サッチャー首相が一九八八年にイギリスの教育基本法(一九八八年教育改革法と呼ばれる)を改正し、荒廃していた教育が大きく改善に向かっていると言われています。
 そこで平沼赳夫前経済産業大臣の発案で平沼「英国教育」調査団を結成し、十月の初旬にイギリスの教育改革についてつぶさに調査してきました(註・調査団メンバー…古屋・下村・山谷各議員、亀井郁夫・参議院議員=自民党、松原仁・笠浩史両衆議院議員=ともに民主党)。
 今日は、歴史教育や宗教教育、教育水準の向上などの調査結果を報告していただきたいと思いますが、まずサッチャー首相が教育改革に乗り出した当時のイギリスの状況について説明していただけませんか。
 山谷 サッチャー改革以前のイギリスの教育制度では、学校で何をどう教えるかは基本的に教師の自主性に委ねられていました。全国統一のカリキュラムがなかったのです。しかも、一九六〇年代から、「児童中心主義」という教授法が主流となり、知識の教授・指導よりも子供たちの興味・関心を引き出す体験学習などを重視するようになりました。
 その結果、時間割がなくなり、先生たちが教えたいことを教えていた。例えば「歴史」で、ある先生はアテネやスパルタのことばかり教え、ある先生は子供たちが大好きだからと恐竜時代のことばかり教えるような状況でした。一方で算数のドリル学習やスペルを正しく書く訓練など子供たちが嫌う授業を疎かにするものですから、基礎的な学力が身につかずに自分の名前さえ満足に書けない、数も満足に数えられない子供が続出した。さすがにこれでは困るという悲鳴が産業界や親たちから上がっていました。
 しかも、イギリスにも日本の日教組のような教員組合があって、特定のイデオロギーを子供たちに教えこむという問題もあったのです。イギリスで一九八〇年代に使われていた中学生用の歴史教科書を見せてもらいました。「どの文化も素晴らしいが、イギリスの白人文化だけは人種差別的だ」という教科書があるわけです。ドクロで埋め尽されたイギリスの地図や、アフリカを搾取するイギリスを太った豚にたとえたイラストや、イギリスの国旗は人種差別のシンボルだというような自虐的な教科書が使われていたのです。
 こんな偏った歴史教科書を使っていいのかと国会でも問題になったのですが、偏向歴史教科書を是正する権限が政府にないから直せないというような状況にありました。
 しかし、この偏向歴史教科書を放置すれば、子供たちは自分の国の正しい歴史を学ぶことができず、国民がばらばらになってしまうという危機感からサッチャー首相や保守党の国会議員たちが教育改革を断行した。しかもサッチャー首相は、問題は偏向教育にあるのではなく、偏向教育を是正できないことだと考えて、偏向教育の横行を防ぐ教育制度を生み出すべく全二百三十八条に及ぶ「一九八八年教育改革法」を作りました。
 下村 この偏向教科書『人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか』は、人種問題研究所という団体が作成しているのですが、サッチャー首相が創設した政策研究センターというシンクタンクのジョン・マークス博士によれば、インナー・ロンドン教育当局の補助金によって作られたそうです。日本で言えば、東京都教育委員会の補助金で偏向教科書が作られていたわけです。
 しかも、実際にこれを作ったのはトロツキー(ロシアの革命家でソ連赤軍創設者。世界革命、永続革命を唱えた)派の教員組合だというのです。この教科書がロンドン市内の中等学校で使われていても、その事実を当時の国民はほとんど知りませんでした。そこで、当時の政治家が国会で問題提起をして、サッチャー首相による一九八八年教育改革法の制定につながったわけです。
 これは、わが国の今の状況とよく似ている。つまり、今の中学生がどのような歴史教科書で勉強しているかを親がどの程度知っているかというと、ほとんどの親が実は全く知らないんですね。
 われわれ親の世代の教科書と現在の教科書とは随分違っていて、われわれの、つまり一九七〇年代の歴史教科書の方がはるかにまともで、この十年ぐらいの間に偏向教育はますますひどくなっているのです。イギリスの『人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか』と同じ性格の記述が日本の歴史教科書にも多々ある。
 例えば、私の名前の「博文」は、伊藤博文にちなんで親が命名してくれたのですが、明治維新の志士であり初代総理大臣であるその伊藤博文を教科書はどう描いているか。現在の中学の歴史教科書で最もシェアの高い教科書には、「伊藤博文は安重根によって射殺された」と書かれ、安重根は韓国の記念切手にもなったと絵入りで紹介されていますが、伊藤博文の写真はありません。まるで韓国の教科書です。子供を持つ親の立場から見ても、あるいは普通の日本人から見てもおかしいとは思いませんか。この問題を解決するヒントがイギリスにあると思って調査したわけですが、偏向歴史教科書の解決の仕方など大変参考になりました。
 古屋 イギリスは第二次世界大戦で勝った国ですね。にもかかわらず、なぜあれだけ自虐的な教科書が蔓延してしまったのか。私はこの点に非常に関心を持ちました。それは「イギリス病」が信じられないくらい深刻な状況になっていた証左だということを視察して確信しました。
 第二次世界大戦後、イギリスは労働党政権がたびたび登場し、社会主義政策を推進した中で、労働組合の力が信じられないくらい強くなってしまった。偏向教科書が横行した背景には、このような労働組合がかつての日本以上にいろんなところにアメーバーのように入り込んで教育にひずみをもたらしていたということがあると思います。「イギリス病」では不況と失業者の増大とともに若者の退廃も深刻でしたが、不安定な社会情勢のもとで、学力も母国への誇りもない若者には意欲や積極性など持ちようもないと思います。
 --当時の教育省には、教員組合のシンパが多かったと、サッチャー首相も嘆いていますね。
 古屋 法律の欠陥もありました。戦後イギリスの教育制度は一九四四年教育法に基づいていましたが、この法律は地方教育当局の自主性、教師の自主性、生徒の自主性に任せて教育をすべきという原則に基づいており、歯止めがなく、国家が教育内容に関与するという基本理念がなかった。その結果、教師のしたい放題になり、読み書き計算のできない青年が社会に送り出されていた。そういう悲劇的な状況下で登場したのがサッチャー首相だったわけです。
 しかし、戦後四十年近く教育内容に国は関与せず、教師に任せるという原則でやってきたわけですから、その原則を変えることは容易なことではない。サッチャーが首相になったのは一九七九年、教育改革法が成立したのは一九八八年で、改革が形になるまで実に十年近くかかりました。
 その間、サッチャー首相は自ら創設したシンクタンクを使って、「いかにイギリスの教育がおかしいか」ということを国民に対して懸命に説明して、世論を味方につけていった。もちろん、教員組合ばかりか、マスコミも教育省も反対したそうですが、サッチャーは強力なリーダーシップを発揮し、時には労働組合との先鋭的な対立をも辞さないという姿勢で一九八八年教育改革法を制定した。そして、教え方、カリキュラム、教師の質、子供たちの学力に対して国が直接関与し、検証していくという方式に改めました。実に大変な改革であったわけです。
 安倍 現在の教育は仕組みと中身双方に問題を抱えています。中身でいえば、まず自虐史観に侵された偏向した歴史教育、教科書の問題があります。この問題につきましては、皆さんと共に取り組んできて、徐々に是正されてきたものの、根本的には解決されていないのが現状だと思います。
 これまで、自虐的な歴史教育が蔓延したのは日本が敗戦国であるが故だと思っておりましたので、戦勝国のイギリスでも同じ状況だったと聞いて驚きました。そして、制度ばかりが注目されてきたサッチャー首相の改革が歴史をはじめ教育の中身にも取り組んで成果を挙げたのであれば、きちんと調査をして、わが国の教育改革にも生かしていきたい。そういう目的で今回、先生方に現地を視察して頂きました。
 その結果、改めて日本の教育が抱えるさまざまな課題が浮かび上がってきました。自虐的歴史教育だけではなく、学力が低下し、「ゆとり教育」の一環で「総合学習」という名の体験学習が取り入れられているのもかつてのイギリスと同じです。日教組も、授業カリキュラムの自主編成権ということを盛んに言ってきました。これらの課題をなんとしても二十一世紀の初頭に解決をして、子供たちが日本に誇りを持てる教育の仕組みと中身を作っていきたいと思います。
国は教育に対して責任をとるべきだ
 --今回の調査で、一九八八年教育改革法制定当時に教育大臣であったベーカー上院議員と会いましたが、ベーカー元大臣は、当時は教育改革法制定に反対して国会デモ行進が続き、私の人形も焼かれたし、教員のストライキも半年続いた、と言っていました。
 そういう厳しい時代状況の中から生まれた一九八八年教育改革法ですが、その一番のポイントは、古屋先生が指摘された通り、教育内容について教員や地方に任せるのではなく、国が責任をとることを決めたということだと思います。
 具体的には、一九八八年教育改革法に、教育内容の決定とその実施のチェックに対する最終的責任は国にあることを明示したわけです。これは大変なことだと思いますが。
 下村 もともとこれは、日本の「学習指導要領」を参考にしたといわれていますね。学習指導要領は各学年ごとに到達すべき目標や、範囲を決めております。
 しかし残念ながら日本の場合は「ゆとり教育」ということで、平成十四年実施の現学習指導要領では、従前より三割教育内容を削減した。七〇年代から比べると五割削減しているというデータもあります。国が率先して教育水準を低下させようとしているわけです。しかも、財政上の責任も放棄し始めている。義務教育国庫負担問題でも、日本は地方に財源委譲する代わりに、義務教育費も地方が責任をもて、という方向に進んでいます。しかし、イギリスでは二〇〇六年度から義務教育費については百パーセント国が責任をもつ制度に変えるというのですね。
 二十一世紀の今日、国家が何に責任を持つかが大きな問題となっています。かつては「夜警国家」で、国民の治安、生命、財産を守ることが国の最大の役割でした。もちろん、その重要性は変わりませんが、これからは教育文化の発展にも責任を持とうというのが世界の潮流なんです。
 サッチャー改革で一九八八年教育改革法によって国が教育にも責任を持つという国家戦略が確立し、現在のブレア労働党政権にも引き継がれている。党派を超えて国家戦略として教育を重視する姿勢は大変印象深かったですね。
 古屋 かつて日本には高い教育水準を目指した学習指導要領があって、質の高い教師がいて、なおかつ、しっかりした家庭があった。しかし、戦後民主主義のもとでそれが一つ一つ崩壊してきています。そういう中にあって、イギリスがかつての日本に習って、国家主導で教育水準を上げる方策をとっているというのは非常に皮肉な話です。
 具体的にいえば、国定カリキュラムを策定・改訂すると共に、そのカリキュラムに明示されて学力達成度をはかる全国共通テストを実施する専門の部局として「資格カリキュラム局」(QCA)を作って七歳、十一歳、十四歳の三回、全国共通テストを強制的に全員に受けさせています。
 この全国共通テストの結果はすべて学校ごとに公表し、学校選択の自由を与えられている親はその結果を見て、我が子の通う学校を決めるという仕組みを作っています。その結果、教育水準を上げるという共通の目標のため、教師も親も生徒も必死で頑張るということになり、子供たちの基礎学力は以前と比べて飛躍的に上がってきたといいます。
 --マスコミは、全国共通テストの結果を集計して独自に「学校順位番付」を発表しています。テストの成績がすべてとはいいませんが、学校を挙げて学力水準を上げようという熱意が生まれてこざるを得ませんね。
 山谷 日本でも、私が幼少の頃は全国学力テストがあって、自分の大好きな担任の先生に恥をかかしちゃいけないといって、テストの前になると居残り勉強してみんなで教え合ってクラスをよくしようという空気があったんですが、日教組が猛烈に反対して以後、今日まで三十九年間、全国学力テストができていません。
 現在の学習指導要領の導入にあたっては、経済界や大学教授の方々から「分数計算もできない学生が増えて学力が低下しているのにさらに学習量を減らすのか」という批判が起きました。しかし、全国テストをしていないため学力の変化を示すデータがなく、「詰め込み教育」「受験戦争」に子供たちがさらされているといったイメージだけで「ゆとり教育」が進んでしまいました。中山成彬文科大臣が全国共通テストに意欲を示しておられますが、是非導入していただきたいと思います。
 古屋 イギリスの改革のもう一つの特徴は「教育水準局」(OFSTED)という組織を作ったことです。これは日本にはないシステムでして、国定カリキュラムに基づいて学校教育が行われているかをチェックする、教育省とは独立した専門の学校監査機関です。国税の査察官のような登録監査官が全国に約五千五百人います。その五千五百人を率いるのが、女王陛下から任命される認証官である二百七十五人の勅任監査官で、極めて強い権限が与えられています。
 学校をどのようにチェックするかを聞いたところ、監査官が十五人ぐらいのチームを編成して、一校につき約一週間、どういう授業をしているか、どのような教科書を使い、どのようなプリント、掲示をしているかまで徹底して調査するそうです。国定カリキュラムに従わない教育をしていると、直ちに是正勧告がなされ、この学校はこういう問題があるという報告書がインターネットで公表されると共に、父兄すべてに情報提供される仕組みになっているのです。
 --保護者の立場に立った情報公開が徹底していると思います。ある中等学校の報告書を見せてもらいましたが、A4判で約五十頁ありました。そこには、「歴史の授業の問題点」「我が校の不登校生徒数や全国共通テスト結果の推移」といった突っ込んだ意見やデータも記されていて驚きました。
 山谷 サッチャー改革以前も監査官はいたものの、全国で四百人ぐらいで、三十年に一回ぐらいしか監査がなかったというような状況だったそうです。教育水準局の勅任監査官から伺った話によれば、それが、この十年間に、イギリスすべての学校の監査を二回ずつ行ったそうです。その結果、国定カリキュラムに基づいた教え方をしていない、校長中心の学校運営ができていない、校内暴力やいじめが多いなどの理由で教育困難校に指定された学校は約千三百校に及び、うち百九十校は「改善の見込みなし」として廃校処分となっているのです。
 教育水準局は、大学の教員養成機関も監査していて、指導力不足の先生を養成している教員養成機関を六つ潰したとも聞きまして、教育の水準を確保するために相当ドラスティックな改革をしていることを実感しました。
 --ちょうど調査団がイギリスに滞在していた時、「オブザーバー」紙が、教育困難校に指定された学校が改善されたドラマを紹介していました。この学校は「改善能力がない」ということで一旦廃校になりますが、校長や教員をすべて入れ替え、学校名も変えてフレッシュ・スタート・スクールとして再出発させたところ成功したと書いておりました。
 教育水準局の監査は問題校を廃校にすることが目的ではなく、国が責任を持って問題を改善していくシステムであって、この十二年間で教育困難校のうち千二百校が改善されたと聞き、非常に機能的に働いているなと感じました。学校監査は、問題を教師や学校だけで抱えこませないで、国が一緒になって解決していこうという姿勢の表れなんですね。
 古屋 私もそう思いました。教育水準局の話だけだと、イギリスでは、教師を取り締まることを中心に改革を進めているという印象を受けますが、実際はそうではありません。教師の資質を上げるために教育省の外郭として「教員養成委員会」(TTA)と専門機関を作るなど、教員の水準向上に懸命に努力しているという印象を受けました。
 驚いたのは、この教員養成委員会が年間二十億円もの予算を使ってテレビCMなどを打ち、「イギリスの教員になるということは皆様にとって世界で一番素晴らしい人間と接する職業なんですよ」と大々的に宣伝し、有能な人材を集める努力をしているということです。特にブレア政権になってから、教師の給与もかなり上げているようですしね。
 ですから、教育に対して国が責任をとっていくということは、必ずしも政府の統制を強めるということではない。イギリスでは、親や地域の代表による学校理事会があって、その学校理事会と校長に予算の運用権も教師の任免権も与えている。つまり国から交付されたお金をどのように使うのかは、各学校の自主性を尊重する。国がきちっと基準やシステムを決め、教育水準局によって厳しくチェックし、結果を情報公開する代わりに、現場の教育従事者に対して最大限の責任と権限を与えている。この制度は、サッチャー以来の教育改革の特筆すべき点だと思いました。
 安倍 今、国と地方の税財政を見直す「三位一体の改革」で、義務教育費国庫負担制度の縮小・廃止、つまり小学校と中学校の教職員の給料を国と都道府県のどちらが払うのかということが議論になっていますが、われわれが目指すべき教育改革は、こうした問題に矮小化されるべきではないと思っています。
 確かに教育に国が責任を持つことの正しさはイギリスが証明していますが、日本ではこれまで教職員の給料の半分を払ってきたから国は責任を果たしてきたと言えるのかといえば、肯くことはできません。学校の現場をみると、責任を果たしていないという結論に至ると思います。確かに中学校レベルの学力ではこれまでの日本はそれなりの達成度があったと思いますが、だんだん怪しくなってきている傾向が各種の調査で明らかになっています。中身だけではなく、教育秩序の維持すら危ぶまれていて、授業が成り立たない学級崩壊が蔓延し、かつては主に中学校で起きていた校内暴力が小学校でも頻発するようになった。
 そうした中で求められる国の責任とは、先生の給料を払うことではなく、どの地域のどの学校でもきちんとした水準の教育が行われるようにすることだと思います。
 イギリスでは、いま報告していただいたように教育水準局を創設し、監査官を大増員して各学校の教育レベルを担保するという国の責任を果たそうとした。ただ、サッチャーの場合は教育だけではなくて社会制度全体を大改革し、アウトソーシングできるものはアウトソーシングして、予算も大胆に削減しましたから、教育の分野で監査官という公務員を増やすことも可能だった面もあります。
 今後、小泉改革の中で公務員制度の改革にも取り組むことになると思いますが、廃止をすべきところは思い切って廃止し、一方で本当に必要な組織や制度を新たに造っていくことも必要です。
 子供たちの学力が向上すれば、教師の皆さんも喜びを感じると思います。これこそが教育本来の喜びの一つであり、先生方にとっては、より一生懸命に教育に人生を捧げていこうという動機づけにもなると思うのですが、これまでは子供たちの学力が問題になることすらありませんでした。また、東京や大阪では改善の動きが出ていますけれども、頑張っても頑張らなくても同じという悪平等が先生たちの世界には蔓延しています。
 さらには組合活動をしっかりやった方がいいという地域すらあります。今年七月の参院選で民主党候補を応援した日教組傘下の山梨県教職員組合が組合ぐるみで政治資金を集め、学校内で会議を開くなどして選挙運動を行っていたと報道されています。今後その実態について調査が進められると思いますが、圧倒的な組合組織率のなかで選挙運動や政治資金集めに熱心な教員ほど出世が早いという土壌があったといわれています。
 従って、現状で国が教育に責任を果たしていると考えるのであれば大間違いであって、むしろ「三位一体」改革をテコに教育の全体的な改革を進めていかなければならないと思います。
 山谷 「先生の世界の悪平等」でいえば、教職員の評価には「勤務評定」、いわゆる「勤評」がありますが、「校長から一般教員まで平等であるべき現場に差別と分断を持ち込む」という日教組の激しい反対闘争に遭って骨抜きにされ、「主任制」とともに長く名目だけの制度になっていました。
 いま、大阪での改善の話が出ました。大阪府教委・市教委は、平成十六年度から「教職員評価・育成システム」という人事考課制度を本格導入しました。しかし、やはり一部で根強い反発があり、先生たちが人権救済を申し立てる運動が今、行われています。呼びかけ文をみると、制度は「国家のための教育支配の道具」で、「戦争国家づくりのための教育支配」だというんですね。教育活性化のための制度がなぜ戦争と結びつくのか。教育内容よりも政治的な主張が優先されていて、まさに「子供不在」です。呼びかけ文では考課制度が「教職員の自主性・自発性を奪う」とも言っています。特定の人たちが言う「教師の自主性」の歪んだ本質を表していると思います。
偏向教科書是正にも成功した
 --偏向歴史教科書問題はどう解決したのでしょうか。
 古屋 ロングマン社という大手教科書会社の歴史教科書担当の方とお話をした時に大変印象的だったことが一つあります。「もし今あなたがかつて使ったような自虐的な歴史教科書を作ったとしたらどうなるでしょうか」と聞いたら、「私のクビが飛びます」とはっきりおっしゃいましたね。
 サッチャー教育改革で国定カリキュラムが導入されましたが、「教育大臣が定める国定カリキュラムはバランスのとれた、幅広いものでなければならない」と、教育改革法に明記されています。
 サッチャー首相の素晴らしいところは、これまで自虐的な歴史教育が横行したから、その反動で素晴らしいところだけを教えるようにしたわけではないということです。かってはビクトリア王朝時代の奴隷制度、あるいは植民地制度の負の側面ばっかりを教えていたが、イギリスが世界に先駆けて奴隷貿易廃止を謳ったこともきちんと教えていこうということにした。負の側面も教えながら、イギリスが世界に果たした貢献もバランスよく教えて、あとは生徒自身の判断に委ねるというのが、歴史教育の根本なんだという考え方に立脚しています。
 しかも、学校現場でバランスのとれた教え方をしているかどうか、先に紹介した「教育水準局」が徹底して監査して、偏った教え方をしていれば直ちに勧告し、それに従わない場合は、学校理事会の構成メンバーである保護者が抗議を行い、その教師を解雇するという仕組みになっているわけです。ですから、教育水準局の勅任監査官も「偏向教育はあり得ない」と断言していました。
 それに、イギリスの教科書は学校採択ですが、偏向した歴史教科書を採択すれば、その教師が責任を追及されることになりますので、結果的に偏向した教科書は採択できないようになってしまっているのです。
 下村 日本でも自虐史観が教えられているわけですが、それに反対するわれわれはメディアから国粋的、保守反動的と見られがちです。しかし、われわれは常識ある歴史教育を望んでいるだけであって、「バランスのとれた教育」という考え方は参考になりました。
 歴史には光と影があります。わが国においてもやはり光と影の部分をきちっと教えるべきだと思います。しかし、いままでは影の部分しか教えてないわけですから、現段階では、光の部分を歴史教科書の中にきちんと入れることが必要ですね。これは批判されることではない。バランスのとれた歴史教育を行おうという運動を広げていくことが必要だなと思います。
 古屋 同感です。日本には検定制度があるにもかかわらず、自虐的な教科書が横行しています。これは検定制度に欠陥があるからなんです。幅を持たせた基準で検定し、マイナスの側面ばかりが仮に書いてあったとしても、学説状況に当てはまっていれば合格にせざるを得ないという制度的な欠陥があるわけですね。ですから検定基準の中に「バランスをとる」という視点を入れるべきだと思いますね。
家庭科と宗教教育
 下村 自民党では、安倍幹事長代理が党改革実行本部長、古屋先生が本部長代理をされていまして、私がシンクタンク部会長に最近なったんですが、実はこのヒントはサッチャー政権にあるんです。サッチャー首相は保守党とは別にシンクタンクを作って、自前の政策立案能力を持とうとした。そのシンクタンクである「政策研究センター」のマークス博士が歴史教育問題とともに、こういうことを言ったんですね。
「青少年の心の荒廃は家族の存在と深く関連している。残念ながらイギリスには『ワイフ』を『パートナー』と書かせる風潮がある」、つまり伝統的な夫婦・家族の結び付きを壊そうという風潮が強まっているということです。それは大変だなと思ったんですが、帰国して我が国の家庭科の教科書を見ると、やはり「パートナー」と書かれているんですよ。これは偏向歴史教科書とともに非常に深刻な問題と思っていましたが、実際に教科書を見るまで私も気がつかなかった。
 山谷 サッチャー首相も一九八七年の保守党大会で「伝統的な道徳価値を尊重できなければならない子どもたちが、自分達は、浮気をする権利を持っていると教えられている」と演説しています。
 日本の家庭科の教科書でも「カップル」「パートナー」と夫婦を表現していまして、「婚姻届を出さず事実婚を選択するカップル」「同性同士で共に暮らす人たち」というのをお薦めするような形で書いてあります。男と女がご縁をいただいて命を育んでいくというような結婚の基本形は教えないまま、「多様性の尊重」という名のもとに結婚を軽視、破壊していくような記述だけになっているんです。「A子さんとB夫さんは結婚して20年。8年前から別居中。きっかけはA子さんに別の好きな人ができたから。この二人は離婚できるでしょうか」という問いに答えさせる教科書もあります。
 家族・家庭に対しても攻撃的で「祖母は孫を家族と考えていても、孫は祖母を家族と考えない場合もあるだろう。犬や猫のペットを大切な家族の一員と考える人もある」と書いてあります。結婚や家族というものは個人を抑圧する、対立する悪者であるかのような内容です。イギリスも同じ問題で苦しんでいると思いました。
 私は改正する教育基本法に「伝統文化の尊重」「家庭教育の重要性」「道徳、宗教的情操の涵養」「教育に対する国の責任」を明確にする条項をぜひ入れてほしいと考えていますが、宗教教育でいえば、イギリスは一九八八年教育改革法で、キリスト教を中心とする宗教教育をきちんとやってほしいというように法律を書き換え、毎日小中学校で「祈り」か「瞑想」か「沈黙の時間」をもつようになっています。
 ロンドンのヤーバリー公立初等学校を視察した際、三歳から九歳までの子供たちが講堂に集合して朝礼をしていました。校長先生が荘厳できれいなフランスのパバーヌの音楽を流す中、スーッと子供たちが入ってくる。静寂の中、校長先生が環境問題の絵本を読み聞かせ、読み終わるとロウソクに火をつけて、「環境問題に対してあなたたちは何をできるかを考えながらみんなで祈りか、瞑想をしましょう」と、一分間の沈黙の時間を持っていました。
 イギリスは移民も多いですから、キリスト教だけというわけにはいかない。キリスト教の他にヒンズー教、イスラム教、仏教、シーク教、ユダヤ教という六大宗教を宗教知識教育として学ぶことになっています。
 --ヤーバリー初等学校の校長は「我が校の生徒は三十七の異なる文化的背景をもっている」と言っていましたから、宗教教育を行うのは日本以上に大変だと思います。
 山谷 イギリスではスピリチュアル・ディベロップメント(霊的発達)という言い方をしていましたが、宗教教養教育や知識ととも宗教的情操を涵養する教育、つまり人間教育として魂の開発が必要だという教育観に立っていて強く感銘を受けました。
 --すべての中等学校に宗教教育の専門家がいると言っていましたしね。
 山谷 これに対して日本では、給食で「いただきます」と合掌することすら指導できなくなってしまっている。宗教儀式にあたるから、宗教教育に枠をはめた教育基本法第九条、憲法二十条違反だというのですね。さらに京都、奈良で神社仏閣を巡ったり伊勢神宮に行く修学旅行が激減し、代わりに中国や韓国に行って、反日資料館を見せられて帰ってくる。神社に行っても鳥居の向こうに行くのは宗教行為だからという歪んだ解釈で鳥居の手前で解散する学校もある。子供たちが宗教とは何かを考えたり感じたりするチャンスが奪われている。国際社会で活躍できる人材を育成するならば、宗教の基本的な教養、知識は不可欠です。そのようなものがあることすら子供たちに教えないのは非常に無責任です。
 安倍 いまのお話で、読者の皆さんも日本の教科書は、歴史だけではなくて家庭科までも歪んでいるということをご理解いただけると思います。
 日本には教科書の検定制度がありますが、古屋さんが指摘されたように、イギリスのようにバランスの問題が検定の基準になることはなく、一つひとつの記述が許容範囲の中に入っていれば合格します。そして、実際の教科書では、ストライクゾーンのど真ん中には球は一つもないんです。ストライクゾーンの左サイドぎりぎりにすべての球が集まっていて、全体でみると、ひどくアンバランスになっている。
 では、なぜ歪んだ教科書が採択されるのかというと、歪んでいなければ採択されない仕組みになっているからです。前回の中学校歴史教科書の採択で、ストライクゾーンど真ん中の記述ばかりであった扶桑社教科書の市販本は百万部近く売れて国民に支持されたにもかかわらず、教育現場での採択は惨憺たる結果になりました。現状の採択の仕組みでは、大多数の国民の良識が反映されないどころか、否定されてしまうわけです。この状況を変えていかなければいけない。
 歴史に対して、われわれは謙虚な態度で臨まなければなりません。当時の国際情勢を踏まえ、思慮深く歴史を見ていく必要があります。一つひとつの歴史事象には陰もあれば光の部分もあって、単純に「すべて日本だけが悪い」と割り切れるものではありません。しかし現在は、自分が裁判官になったかのごとく祖国の歴史を裁いて、したり顔をしている人たちが採択に影響を及ぼし、子供たちに一方的な断罪史観を押しつけている。これは歴史教育のみならず、人間教育としても間違っています。家庭や夫婦の絆を大切にする人間教育も必要です。そういう意味で、われわれの責任は大変重いし、政治家としてそんなに悠長な時間をかけてもいられないと思っています。
 古屋 教科書採択の権限をもつ教育委員会の皆さんに対して是非訴えたい。バランスをとるということが子供たちを健全に育成するためにいかに大切かを十分にご理解いただき、実際に検定を通った教科書を読み比べていただきたい。どの教科書が一番バランスがいいかということは一目瞭然でわかるはずです。
偏向教育と過激性教育の横行を許す教育基本法
 --イギリスでは教科書は自由発行で、検定制度はありません。しかし偏向教科書はない。日本は検定されているにもかかわらず、偏向教科書が学校で採択されている。非常に矛盾を感じました。
 古屋 教育基本法も憲法もそうですけど、国家は国民と対立する存在であり、国民を抑圧するものであるという思想がいまもあるんですね。教育基本法第十条の中に「教育は、不当な支配に服することなく」という一節があります。この「不当な支配」を、教職員組合は国家の関与だとイメージしてるんですね。つまり、教育内容に国が関与するのは教育基本法の禁止する「不当な支配」にあたるという解釈をとっているわけです。
 このような解釈が成り立ちうる条文が現行の教育基本法にある限りは、国が義務教育に対して責任をとるという発想が成り立ちません。今度の教育基本法改正では、国がどう教育に対して責任をとるかという発想に変えていく必要があると思うんですね。
 いったい、いま誰が教育に責任を取っているのか。文部科学省があって、都道府県の教育委員会があって、市区町村の教育委員会があって、現場の学校があるという四重構造のもたれあいで、どこも責任をとっていない。
 教育だけではなく、あらゆる行政について言えますが、日本は事前チェックは厳しいけれども、事後チェックは全然していない。しかし、事後チェックまできちんとしないと責任をとったことにはなりません。
 イギリスは二〇〇六年から義務教育費を百パーセント国庫負担していく。その予算を各学校に対して生徒一人当りで配付される。あとは校長先生と学校理事会が協議して決めるという形で予算運用権を認める。しかし予算がきちっと使われているかどうかは国が税務署の査察のようにチェックし、その結果を公表する。国と現場とが明確に責任を分担しているわけです。こういうメリハリのついた制度にしていくべきだと思いますね。
 山谷 私は国会で、とんでもない性教育が小学校の低学年から行われていると訴えてきました。例えば小学校の低学年に性器の名称やお父さんとお母さんの裸の図が描かれたプリントで具体的な性行為を教え、加えて今日の授業はお母さんとお父さんの大切な秘密なのでおうちでしゃべらないことと約束させてプリントを回収する。学習指導要領を無視した過激な性教育を親に黙ってやっているんですね。小泉純一郎首相に「こんなひどい性教育が全国で行われているから調査をしてほしい」と要請したら、首相も「見直さなきゃいけない」とおっしゃった。
 ところが、各地で教職員組合が教育基本法第十条を持ち出して「教育への不当介入を許すな」といって調査をさせないんです。私は親の教育権はどうなっているのかと思いました。年齢や心身の発達状況に配慮した性教育をすべきなのに、その実態調査すらできない。これには怒りを持ちました。
 --イギリスでも過激な性教育を教師が勝手に行う状況があったため、事前に保護者に相談しなければいけないという法律をサッチャー政権は作っています。
 山谷 当然だと思います。親の教育権を保障するのも、教育に対する国の責任でしょう。この教育に対する国の責任という趣旨を教育基本法に書かないと、過激な性教育の実態を調査することさえできないんだと思いました。
 もう一つ、イギリスは、親の教育権を保障する一方で、義務と責任も課しているんですね。
 増加する少年犯罪や不登校対策としてブレア政権は「子育て命令」という法律を作りました。親は子供の非行を防止し、きちんと学校に行かせる義務があり、その義務を怠った場合は処罰するというものです。親の怠慢で不登校を続けている場合、その親は、地方裁判所に訴えられて、親としていかにあるべきかという講習を受けると共に罰金刑に課せられます。数万円から五十万円の罰金刑がある。罰金刑を受けても親としての義務を果たそうとしなかったので、禁固刑を受けた親もいたそうです。
家庭の教育権と義務を教育基本法に盛り込むべき
 --親の教育権を保障するといいますが、日本では教育に対する親の関心はかなり低い状況にあります。しかし、教育改革を進めていくうえで、保護者、国民全体の関心は大切です。
 古屋 イギリスでは、学校理事会の存在が大きいと思いました。サッチャー改革によって、それまでお飾り的存在だった理事会に、学校の予算運用権や教員の任免権が与えられ、かつ保護者がその主要メンバーとなるようになりました。
 現在、理事会メンバー数は大体十五名ぐらいで、親の代表が理事会全体の三分の一(五名)、地方教育当局が理事会の全体の五分の一(三名)、教員の代表が三分の一(五名)、地域の代表が理事会全体の五分の一(三名)以上、校長は理事長になるか自ら判断してみんなにその承認を得る。おのずから親が関与せざるを得なくなるわけです。そして、その学校理事会で先生を何人雇うかなど細かい運営方針まで決めています。日本のように、親の意見を尊重するシステムもないまま、責任や関心を持ちなさいと言っても実効は伴わないと思います。
 下村 われわれがイギリスで初等学校を視察して驚いたのは、学校が始まる時、朝の九時頃でしたが、すべての子供に保護者が付き添って登校していることですね。スーツ姿のお父さんがたくさんいらっしゃった。学校の送り迎えは親が必ずする、これがイギリスの常識になっている。
 古屋 あれは親の義務なんでしょう。
 山谷 ええ。我が家の隣にドイツ人が住んでいました。在日ドイツ人学校のPTA会合が夜あるからと、子供を預けて出かけたんですが、深夜零時を過ぎてようやく迎えに来たんです。教育のあり方について一つ一つの教材についてまで、保護者と先生で侃侃諤諤の議論をしたと言っていました。これが親の教育権だろうと思うんですね。
 私は国政報告の集会などで、「お子さんの歴史教科書と家庭科の教科書をチェックしてみてください」と呼びかけることにしています。親が「こんなのを使ってた」と驚いて教科書をコピーして回覧すると、周りの皆さんもびっくりされる。具体的に我が子が受けている教育を親が把握できるよう情報公開するところから、親の責任も確立されていくのだと思います。残念ながら学校は依然として閉鎖的で、PTAは校長のお手伝いさん的な組織だし、新設された学校評議員制度も町内会長などのあて職になることが多くて十分機能していません。
 古屋そのためにも教育基本法の中に、「家庭の責任」を教育権とともにしっかり位置づけることが必要ですね。家庭、社会、学校、すべてがそれぞれの責任を負いながら教育に携わっていくという基本的な考え方を教育基本法に盛り込むことが大切だと思います。
 下村 私が今回の視察結果をまとめて中山大臣に報告をしたところ、中山大臣がそれに沿って「甦れ、日本!」という教育戦略をペーパーにまとめて十一月二日、小泉首相に提出しました。そこで中山大臣は、「今、日本は危機的な状況であり、このままでは東洋の老小国に日本は成り下がってしまう。そうならないためには諸改革の基盤となる人材育成、教育改革が大切である。日本は人材こそが唯一の資源であり、知力、体力、品格、教養を世界のトップレベルにもっていくような国家戦略としての教育を考えるベきだ。世界はすでに国際的に゛知の大競争時代″に入っていて、各国とも国家の命運を賭けた教育改革を推進している。イギリスもそうだし、アメリカもそうだ」と訴えられました。
 具体的には、「頑張ることを応援する教育」にすべきではないかということです。今の日本は、勉強でもスポーツでも芸術でも、とにかく頑張ることを応援していない。ゆるみ教育、ゆとり教育ですから。そこで、確かな学力、豊かな心、健やかな体、挑戦する精神という新しい時代の日本人像を教育基本法に明確に書き込みたい。
 仕組みの面では、また学力向上も世界トップレベルへ持っていくために全国学力テストをして、きちんとチェックするシステムも確立する。教員の質の向上も重要で、教員免許の更新制とか、先生の専門職の大学を作るといった方向に進めたい。何よりも、現場主義ということで、人事権や予算運用権は校長にどんどん委譲していく。一方で国がもっと責任を持つということで、国が基本的な基準を設定し、教育水準の確保、機会均等を保障する。われわれが今日議論したような改革を是非進めていきたいと思います。
 安倍 日本の教育基本法は、昭和二十二年三月という占領期に制定されました。その作成過程では、GHQの民間情報教育局が干渉していたことが明らかになっています。彼らニューディーラーと呼ばれるラディカルな人たちの意図が反映されているわけです。
 基本法は「無国籍」だとよく言われるように、日本の歴史や国柄は一言も触れられていません。いってみれば日本の香りがしない。実は、首相の諮問機関だった「教育刷新委員会」の基本法の前文案には、「普遍的で個性豊かな、伝統を尊重してしかも創造的な文化を目指す教育」とあったのに、「伝統を尊重して」という文言がGHQの介入によって削除されたという事実があるんですね。この結果、日本人としての自覚やアイデンティティーを育てるという視点がまったく欠落してしまいました。
 基本法前文は、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである…ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立する」と書かれています。しかし、そこで実現を目指すという憲法の理想や精神は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」という前文に見られるように、国際情勢の現実にまったく合致しない認識に基づく空理空論に過ぎないことを、いまや多くの国民が理解しています。社会の構成単位である地域や家庭の大切さや、両者による教育についてもどこにも書いてありません。
 これを戦後六十年後生大事に守ってきた結果が今の状況だと思います。
 教育基本法を改正して何が変わるのか、何も変わらないだろうと反対派は言います。例えば朝日新聞の平成十五年三月二十三日付社説は「理念をいじっても、いじめや学力低下の処方箋にはならない。基本法を変えれば解決できるほど、問題は簡単ではない」としています。しかし、基本法の改正は、荒廃した現在の教育を、二十一世紀の日本を担う人材を育成できる教育として再興するためのスタートなんですね。教育を根本から改革していこうという創造的なスピリットがそこから生まれてくる。サッチャーが半年間にも及ぶ教職員組合のストにあってもたじろがず、改革を断行した精神にわれわれも学びたいと思います。
※このインタビューは、産経新聞社の許可を得て、「正論」2005年1月号より転載したものです。

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